ウイングメーカー・フィロソフィー 第一室

Posted on 6月 14, 2023 in ウイングメーカー by admin

June 11, 2023

ウイングメーカー・シリーズ第1巻』 : 第5章 ウイングメーカー・フィロソフィー 【 ウイングメーカー・フィロソフィー 第一室 】

【 「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」の生命原則 】

表現体としての「実体(エンティティ)」モデルは、生物学的装置を通じて新たな「フィールド・オブ・バイブレーション」を探求するようにデザインされている。
実体はこの新しい発見のプロセスを通じて変容し、「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」の新たなレベルの理解と表現を獲得していく。

「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」は全宇宙の時空内の実体モデルの最高の表現であり、その内部に「ソース・インテリジェンス」の能力に最も近い姿が体現されている。
自身に埋め込まれた「ソース・コード」を完全に起動することで、「階層(ヒエラルキー)」の支配的局面から離れた状態は、「発展・救済モデル」を越えて変容した、実体の自然な姿である。
これは、「ファースト・ソース」が最初に着想した実体モデルの内に播種された、基本的な能力である。

全宇宙の時空における全ての実体は変容の経験の様々な段階にあり、ソース・コードが十分に活性化されていくに連れ、「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」のレベルまで到達するよう運命ずけられている。
変容の経験とは、実体モデルが、ソース・インテリジェンスの情報を直接利用できる能力を獲得することである。
それはファースト・ソースの情報が、「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」としての実体モデル内で発見されるということだ。

別の言い方をすれば、生物的、感情的、精神的能力を完備した「人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)」は、実体のソース・コードの倉庫ではないということである。
同様に、「人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)」がこの開放の情報「全知なるもの(オール・ザット・イズ)へのアクセス」という輝ける自由に手を伸ばし、それを取り込めるということでもない。
実体は、ソース・コーディングの活性化を擁する「港」であると同時に、そこにアクセスする為の装置でもあるということだ。

ソース・コーディングが活性化すると、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)と至高の実体の融合を通じて、変容の体験が創り出される。
変容の経験は、「知覚している現実(リアリティー)は、個人の好みを象徴したソース・リアリティーである」という理解から成り立っている。
従って、ソース・リアリティーと至高の現実は、風と空気のように不可分の関係なのである。

この二つの現実の合流は、変容の経験を通してのみ実現する。
それは全宇宙の時空間で知られている、他の何ものにも似ていない。

この強烈な嵐からそよぐ表層的な風を経験した人々が、地球上(テラ・アース)に存在した。
ある者はそれをアセンションと呼び、またある者は、啓示、ヴィジョン、悟り、ニルヴァーナ(涅槃)、宇宙意識と呼んだ。

人間体験の標準からすればそのような経験は非常に深遠である一方、「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」の最初の兆(きざ)しに過ぎない。
その存在の彼岸の淵に触れ、目覚めに徐々に慣れていくのである。

ほとんどの種族が究極の喜びと定義するものは、「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」がその形態の前哨地点へと囁き、形態の存在のルーツと全てに浸透しているこの無形無限の知性と一体とならんと、己の内側に目を向けさせようとした「刺激」に対する単なる感慨に過ぎないのだ。
変容の経験は、空の星々が地球(テラ・アース)から手が届かないのと同じように、人間のドラマの想像を遥かに超えている。

貴方方は人間の目をもってその星々を観察することができるだろうが、決してその手で触れることはできない。
同じように、貴方方は「人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)」によって、この変容の経験を薄々予感することはできるが、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)を通じてそれを経験することはできない。

実体の全体性を通してのみ、アクセスが可能なのだ。
何故なら、ソース・コードとその残余効果である「ソース・リアリティー」を知覚できるのは、全体性の中のみだからである。
そして、偽りなく、この全体性は個人の意識が時間から分離し、超時性(タイムレスネス)の中で、その存在を俯瞰(ふかん)することができた時のみ獲得される。

それにも関わらず、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)は変容の経験を助け、ちょうど生物が変態するように見事な個性を「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」へと統合するトリガーー決定要因なのである。
これは、実体モデルの知覚と発現の次なるステップである。
実体が「発展・救済モデル」の影響下にある外部の情報からではなく、ソース・リアリティーの象徴である生命原則に基づいてその現実をデザインする時、次の一歩が活性化される。

この生命原則は、創造というソース・インテリジェンスのテンプレートである。
それは「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」の視点から現実を創造し、ここに来るまで拒絶していた「フィールド・オブ・バイブレーション」内で、その発展を加速するようにデザインされている。それは、実体の有形・無形の個性を統合する為の機会を構築する原則である。

完璧な仕組みを備えた人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)が、全体性という「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」の知覚を経験する為の架け橋なのである。
「人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)」がいよいよソース・インテリジェンスに反応するようになれば、最初に創造された創造原則を象徴するこの生命原則に引き寄せられるであろう。
「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」という変容の経験に導き、時空間の制約と外部のコントロールから実体を開放する様々な表現が、広範囲にわたり存在する。

しかし、表現の形態が多様である故に、その意図は非常に狭義に定義される。
それは統合へ向かって拡大することであり、それによって「人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)」が、徐々に「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」の視点に調和してゆくのだ。

変容の経験を加速し、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)が「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」の視点に調和するのを支持する三つの特別な生命原則がある。

① 感謝を通じた宇宙との関係
② 全ての中に潜むソースを観察すること
③ 生命の慈しみ

個人がこれらの生命原則を適用した場合、個人の人生経験において一見偶然に見える出来事にも、深遠な意味を解き明かすことができるだろう。
宇宙的、個人的両方の意味においてである。

【 感謝を通じた宇宙との関係 】

これは全体的宇宙(ホールネス・ユニバース)が集合知性を表現する際の原則であり、集合知性は一つの「普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)」として個別化することが可能である。
従って、この推論モデル中では、全宇宙にはたった二つの実体しか存在しない。
それは、「個別の実体」と「普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)」である。

個人が強い感受性を持ち、新しい情報に適応する為に絶えず変化していくのと同じように、普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)も動的で生き生きとした位置エネルギーのテンプレートである。
それは友人の人格や行動と同じように理解できる、首尾一貫した経験でもある。

普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)は、個人とその知覚、そして、発現に反応する。
ソース・インテリジェンスが浸透した数え切れない数の個の総和複合体であり、水溜りが影を落とす物の像を写すように、個人の知覚に反応する。

人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)内に宿る全ての者は、実際にその最も深いコアで、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)を「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」という装置へ変容させることができる至高の実体である。
しかしながら、この変容は個人が普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)という「鏡」の上に、「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」の像を写すか、或いは実際の存在よりも劣った歪(ゆが)んだ像を写すかの選択に依存している。

「感謝を通じた宇宙との関係」の原則は、第一に普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)を支える「鏡」の上に、それへの感謝を通じて自己イメージを意識的にデザインすることである。
別の言い方をすれば、普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)は、個の生命の現実を形創るパートナーということである。

個人が普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)という鏡の上に至高のイメージを投影するならば、現実は、外部からのコントロールや条件から完全に切り離された内部の創造というプロセスになる。
このプロセスは、個人と普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)との間の支援的なエネルギーの交流である。
人生のどの瞬間においても、この交流が完璧に、そして、正確におこなわれていることに対して感謝する時、このエネルギーは最大限に発揮される。

普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)が、如何に完璧に個人の至高の現実を支えているかを個人が自覚していれば(少なくとも自覚することに興味を持っていれば)、強烈であるが自然な感謝の念が、個人から普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)へと流れ込むであろう。
普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)から個人への支援という水路を開き、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)を「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」という発現へと変容する協調の意志を確立させるのは、この感謝という水源なのである。
主として、普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)と個人が相互に作用する仕組みに対する感情が、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)を至高の実体へと繋げ、「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」という知覚と発現の状態へと最終的に変容させるのだ。

個人と普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)の関係性がどのようなものであるかが、進化と成長に重要な要素となる。
何故なら、何よりもそれが無数の生命形態とその発現に対して、どのくらい個人が心を開いているかを決定するからである。

個人が至高の現実の中の変化を、普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)の移ろい行くペルソナであると受け入れた時、個人はその生命そのものとの大いなる調和の中に住むことができる。
人生は、個人と普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)との間で行われるエネルギー交換となる。

そのエネルギーは批判判断も、恐れも混じらない経験を齎(もたら)すだろう。
これが、無条件の愛の基本的意味なのである。

人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)が投影したイメージに完璧に応えてくれる「一つの統合された知性」が発現したものとして、人生を体験するということだ。
こういった理由から、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)が普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)へ感謝を投影した時、ソース・コードの活性化に向けて人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)が開き、総合モデルのフレームワークに基づいて生きていけるように、環境や状況に関係なく人生が流れ始めるのだ。

感謝の気持ちは歓びという精神概念と相俟(あいま)って、目に見えないメッセージのように全ての時間、あらゆる方向から表現される。
この意味において、普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)への感謝が、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)が憧れる全ての表現形態の背後に潜む原動力となる。
全ての呼吸、全ての言葉、全ての感触、全ての考え、あらゆるものがこの感謝の念を表現することに集中される。

感謝とは、個人は至高であること、そして、個人のソース・コードを活性化し、全ての形態と知性の発現を通じて表現している普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)によって支えられている感覚である。
普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)は、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)と実体を「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」へと変容させる為に、理想の現実を創造するという唯一の目的の下(もと)に動いているのだ。

ソース・コードの活性化を加速し、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)と実体というバラバラの構成要素を融合して、「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」という知覚と発現の状態へと変容させる能力が、この感謝という特定の形態なのである。
その変容を妨げ、個人の普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)との関係の明瞭さを曇らせる唯一の要因が、時間なのである。

時間が干渉して、失望や絶望、自暴自棄という「窪み」を生み出す。
しかしながら、多くの場合、実体のソース・コードを活性化し、普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)と更なる親密で調和の取れた関係を確立させるのは、この「窪み」そのものなのである。

時間は、経験の分離を生み出し、断片として知覚される現実を創り出す。
そして、公平に全てを支配する意思である普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)に対する疑いを、次から次へと生み出すのだ。
その結果、宇宙とは鏡ではなく、どちらかと言えば混沌とした気紛(きまぐ)れなエネルギーではないかという恐れが生まれる。

人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)が「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」と協調し、自らが現実を創造しているというこの視点に立って生きる時、調和という自然な状態が引き寄せられる。
これは必ずしも人間という装置(ヒューマン・インステトゥルメント)が問題も不安もないということを意味するのではなく、むしろ、人生が解き明かすものの中に不可欠な目的があるという認識を示している。

別の表現を使うなら、自然な調和によって貴方方が「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」と協調すればするほど、人生経験に意味を見出すことができるということだ。
貴方方の個人の現実は、長く続く喜びと内なる平和を創り出す為に、多次元的な宇宙の各層から流れ出るべきなのである。

感謝とは、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)に普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)の役割を気づかせる「愛」の重要な様相である。
それは普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)が、気紛(きまぐ)れな運命や、機械的で厳密に反応する超然とした宇宙などではなく、至高の現実の延長として、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)を助けようとしているのだという目的に、再び気づかせてくれるものである。

感謝を自ら流出させることを通して普遍的実体(ユニバーサル・エンティティ)との関係を築くこともまた、変容を齎(もたら)す人生体験を引き寄せる。
それは生命や人生の最も深い意味と、その深遠な目的を解き明かすことに捧げられた経験のことである。

【 全ての物事の中に潜むソースを観察すること 】

これは「ファースト・ソース」が全てのエネルギーの発現を通じて、全ての現実に含まれているという原則である。
ファースト・ソースはその破片が同一の壁に嵌(は)め込まれ、それ故に統合されたモザイクのように全ての中に織り込まれている。
しかしながら、モザイクを統合するのは絵ではなく、その破片が付着している壁である。

同様に、ファースト・ソースは非常に多種多様で、一見お互いに無関係にしか見えない絵を描く為、統合されているようには見えない。
しかし、統合しているのは、外側に見えるものではない。

全ての発現形態を纏(まと)めているのは内的なエネルギーの中心であり、それを基盤にして多様性という破片が積み重ねられているのだ。
このエネルギーのセンターは、「全体的宇宙(ホールネス・ユニバース)」内の全ての「フィールド・オブ・バイブレーション」に存在する、全ての生命の集合的な倉庫である。

ソース・インテリジェンスを全ての生命の破片へ投影し、全ての形態の中へと自分自身を解き放つのはファースト・ソースなのである。
従って、ファースト・ソースの拡張を演じているソース・インテリジェンスとは、全ての生命というモザイクの破片が付着している「壁」という統合のエネルギーである。

生命は、全てと全てを個から個へと結びつける、たった一つのエネルギー・ソースから流れ出している。
「全ての物事の中に潜むソースを観察すること」とは、全ての生命の発現はファースト・ソースの表現を伝えているという原則である。

どれほど、この統合するエネルギーが歪(ゆが)められ、曲解されていても問題ではない。
個のソースは、観察可能である。

たとえ、表面上の発現がランダムで、歪(ゆが)められ、無関係で混沌としているように見える時でさえ、その統合のエネルギーを知覚するという行為のことである。
生命の全ての発現が、ファースト・ソースの断片的な表現であると真に受け止めた時、全ての使命形態の根底に存在する同一のバイブレーションを、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)は知覚できるようになる。

初め生命は「ソース・リアリティー」の延長物として現れ、それが形態に注ぎ込まれた個別化した振動エネルギーとなった。
それは純粋で時間を超えた状態で、全ての生命形態の為に、同じように正確に振動している。
その振動ーバイブレーションが、全ての生命が共有する共通の基盤なのである。

これはファースト・ソースとして知られる存在の基盤へ全ての多様な表現を統合する、全ての生命内で観察できる基調波動(トーン・バイブレーション)である。
個人が全ての生命を、皆同一であるという視点で見ることができれば、全ての物の中にソースを観察していることになるのだ。
これは抽象的な概念に思われるが、ファースト・ソースの外的及び内的な発現を探求することで現実化される。

極めて現実的に、個人は自分の経験のあらゆる様相の中に、ソース・インテリジェンスの働きを観察することを期待するのだ。
それは、今というこの瞬間に、生命が最高に自己(セルフ)を表現できるように、全てのものが適切な場所に存在し、その最良の役目を演じ、その目的を果たしているという一点の曇りもない期待である。

状況や環境に関わらず、全ての生命は最高の実現と経験の状態に存在しているのだという視点……生命がその表現において完全であるという知覚である。
何故なら、それは完全性から流れ出たものであり、どのようにその発現が多彩でも、生命とはソース・リアリティーの延長物なのだから。
地球(テラ・アース)上の生命が経験している明白な混乱と、外見上の破滅を考慮すると、この視点、或いは認識は、あまりにも純朴過ぎるように見えるだろう。

全ての形態と表現において、どうすれば生命は最適で完全なものとして知覚できるのであろうか?

これは、生命の大きなパラドックスである。
つまり、その知覚は人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)の精神、及び感情機能と折り合いをつけることができないのだ。
不滅であり、無限であり、永遠で至高である「実体」の中でのみ、この知覚は理解される。

全体性を知覚して、パズルの断片がどのように完璧な関係の中に統合されているかを解明するには、人生ドラマはそのスケールと視野において、あまりにも限界に満ちている。
ここに、パラドックスが存在するのだ。

時間と空間のエネルギーの要素、そして、物質の各次元が、人生のドラマを束縛している。
階層(ヒエラルキー)」の秩序により、情報のコントロールと状況操作が行われる為に、舞台の上ではサバイバルと機能不全行動の人間ドラマが演じられるのだ。

人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)の中の「実体」は、人間ドラマの中では主に表現されることはなく、十分に利用されてもいない。
従って、生命の表現上の堕落と不完全性が、生命自身の完全性というより、完全性への障害として分離の中で感じられるのである。

生命は無限の知性を拡張し、表現するという決意において完璧なのである。
これが全ての多様な発現としての生命の基本的な目的であり、全ての物の中に観察でき、等しく浸透するバイブレーションとして表現されるファースト・ソースの存在なのだ。

人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)から得られる感覚の入力は、特定の範囲の周波数に限定されており、ソース・バイブレーションの単なるエコーだけしか伝えていない。
本当の周波数は、森羅万象に内在する同一性を意図をもって観想し、事象を越えてその起源を見通す能力によって理解することができる。

この洞察には、貴方方の時代を支配している五感を超越した新しい感覚システムが要求される。
この新しい感覚は、「ソース・コード」の活性化の副産物であり、変容的経験の第一ステージを意味している。

新しい知覚能力により、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)は、ファースト・ソースの存在だけではなく、全ての生命内に潜む、ファースト・ソースから分離し個別化された比類なきものとしての、永遠なる本質を感じることができるだろう。
人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)内の「実体」の知覚を呼びおこすことが、ソース・バイブレーションに向かう永続的感性へとアクセスする理想的な方法である。
これが、個人が全てに潜むソースを観察する能力を発達させる方法なのである。

ファースト・ソースがエネルギーの発現として、全ての個の中に存在するということだけではない。
生命そのものが、完全なのである。
よってこの原則は、全ての分離された発現の形態の中に潜むソースを観察するだけでなく、生命の完全性をも観察することを要求される。

【 生命の慈しみ 】

生命とは、この定義において個の至高の現実である。
生命は、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)にとって主観的であり、感受性に富んでいる。
生命とは、現在性という次元の個の知覚フィールドを流れている経験の総体のことである。

生命は閉鎖されることもなく、その最終章も決して存在しない。
生命は、永遠である。

抽象的な意味で、終わりも始まりもないというのではない。
むしろ、現実的な意味で、生命とは「全体的宇宙(ホールネス・ユニバース)」内の全ての「フィールド・オブ・バイブレーション」にあるソース・インテリジェンスを表現する為に、常に拡大している。

「生命の慈しみ」とは、全ての生命の内に生来的に備わっている知性の自然の拡張と個が調和しているという原則である。
調和は、寛大にサポートするという明確な意図を備えた、個に流れる生命エネルギーを高める。
これは全てのエネルギー形態の最高の動機を識別し、その究極の表現に向かってエネルギーの流れを支援する働きである。

一切の判断、分析、結果への執着なしに、この作用は機能する。
全ての発現から流れ出たエネルギーを純粋に育成し、その生命の表現を支援する。
それは、エネルギーが個人の意志と整合した時にのみ育成の支援が得られるという通常の認識からは逸脱している。

しかしながら、個が生命を、拡大する知性の発現の中を流れる統合されたエネルギーであると見做すことができた時、生命はファースト・ソースの延長としての誉れを得るのだ。
ここには、支援や慈しみに値しない見当違いなエネルギーは存在しない。
今まで地球(テラ・アース)上で悪用されたエネルギーの例証は正反対に見えるかも知れないが、「邪悪な意図」によって積み重ねられたエネルギーでさえも、最高の表現を探し求めて流れるエネルギーなのである。

全てのエネルギーの形態は、その最高の表現に向かって育成され、支援される。
これが、この原則の基本的な作用なのである。
この原則は、原因となる動機と生命エネルギーの究極の表現が、個の至高の現実を通過したものとして認識する能力を要求する。

エネルギーは非常に巧妙に、その形態と渾然一体となっている生命の一要素であり、これと同じ形で空間と時間は表裏一体となって統合している。
エネルギーとは、動機である。
それは、精神の理解の能力を超えた知性である。

エネルギーは、その最高の表現を否定する人間の適応力に左右される力である一方で、拡大と進化への動機をもって常に生命に注がれている。
生命エネルギーは、常にそれ相応の適切な状態にある。
生命エネルギーは、自然な状態では決して静止もしなければ、退行もしない。

人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)とは、表現と経験の新しい経路を築く為に、このエネルギーの自然の拡張を育む能力そのものなのである。
実際に、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)の主たる目的は、物理的に存在している間、至高の現実を取り巻く生命エネルギーを拡大し、「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」の視点をより正確に映す表現の新しいレベルへと変容させることにある。

生命を育成する為の特定の行動は、数多く存在する。
各実体はエネルギーを変容させる為に、ある意味、途轍(とてつ)もなく多種多様な方法を通じソース・コード内にプログラムされているのだ。
人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)を通じて作用しながら、実体は人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)内にエネルギーを収集し、保存し、エネルギーの目的と適応方法を変えることが可能なのである。

エネルギーの変換は、個人と普遍のレベルの双方の表現において起こり得る。
即ち、個の至高の現実内において、エネルギーは個人的な幸福というヴィジョンと一致するように変換することが可能であると同様、普遍的な幸福と善意というヴィジョンに整合させることもできるのである。
エネルギーを変換する最良の方法の一つは、個の想念システムを通じて齎(もたら)される。

全ての想念には、その想念を発展させる為の産室のようなエネルギー・システムが存在する。
そのエネルギー・システム内に、生命経験を方向づける流れが存在する。

人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)は、顕在意識、潜在意識の双方でその流れに気づき、流れが個の本当の想念システムを例証する経験の領域へと導くのを許している。
エネルギーを拡大し、変容する想念システムを深めることによって、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)は全ての生命を育成しているエネルギー・システムと関わることができる。

想念から明かに存在にとって好ましいと定義される場合は、エネルギー・システムは未来においてではなく、現在という時間枠において機能している。
今、この瞬間、エネルギー・システムは人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)から不可欠なものとなり、光の糸のようにそのスピリットの中へと織り込まれるのである。
想念が明確であることが、その想念のエネルギー・システムと関わり、慈しみを全ての活動へと行き渡らせる為に不可欠である。

全体的宇宙(ホールネス・ユニバース)は、無限に広がる織物の糸のように繋がりあう全てのフィールド・オブ・バイブレーションを包含している。
そして、「生命の慈しみ」は、全体的宇宙(ホールネス・ユニバース)における普遍的な現実と個人の現実の双方にとって、絶対不可欠なのである。
従って、個がエネルギーを変換するという自分の創造の力に目覚め、寛大なサポートの明確な意思と共にその力を強化する時、彼らはソース・リアリティーの発信者となり、「総合モデル」の建設者となるのである。

生命原則を実際適用していくことで、ソース・インテリジェンスは徐々に実体と一つになり、更に実体は人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)と一つになっていくのである。
このようにして、個性(アイデンティティ)は変容する。

この変容という目覚めの中で、至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)は実体と人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)を統合し、実体はソース・インテリジェンスと統合される。
至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)の生命原則を表現する時の明確な目的は、この統合と個性(アイデンティティ)のシフトにある。

仮に、他の意図や目的がある場合は、生命原則は誤解されたまま、その触媒効果も眠ったままだろう。
全ての生命が、その最高の表現において純粋な愛であり、この唯一の概念の下(もと)に、全ての生命は理解され、永遠の存在となる。
これが「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」の視座なのである。

この視点は核となる想念となり、他の全ての想念はそこから派生する。
想念が拡大していく中で、個の想念システムはこの基本的な視点をサポートする明確な意図と共に生まれる。
全ての生命が創造され、進化し、最終的にはその存在を受け入れる「揺り籠(かご)」として、全体的宇宙ーホールネス・ユニバースを慈しみ、観察し、感謝するのだ。

これらの生命原則は、単に言葉によって説明されたシンボルに過ぎず、人間という装置(ヒューマン・インストゥルメント)の中で辛抱強く燃えている光の残り火を喚起する為に使われる、潜在的な手法である。
これらの原則の力を呼び起こす為にしなければならない、特別なテクニックも儀式も存在しない。

生命原則とは、単に「ものの見方」なのである。
実際にこれらの原則は、意識を拡大する経験を引き寄せる概念なのだ。

原則は、即自的な効果や、覚醒を齎(もたら)さない。
それは、個の生きる術を明確にする意志と意図を増幅させるものである。
その変容の力は、完全に適応の意志に託されている。

「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)」の生命原則を通じて、個は限界を持たない自己(セルフ)のマスターとなることができる。
境界線が定められ、ベールに覆(おお)い隠され、個の光が抑制されているのは、単に「階層(ヒエラルキー)」のコントロールが、至高の存在として生きていくことに対する恐れを作り出しているからに過ぎない。
それが、未知であり、謎に満ちたものであるから。

適切な意図を持ち正しく適用するならば、生命原則は「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)を加速的に出現させる為のツールとなり、「至高なる全て(サヴァリン・インテグラル)の視座と、洞察を感じることができるようになる。
そして、意識の開放と拡大という学びを齎(もたら)す冒険として、新しい現実を形作る能力を強化するだろう。
それがこの三つの生命原則の根本的な目的であり、恐らくは、それを探求する為の最良の理由なのかも知れない。



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